2014/02/02
「スカジャン」とは戦後間もない頃に日本駐留の米兵達が、その記念としてオリエンタルな柄(鷲・虎・龍)や自分たちの 所属していた部隊や基地などを自分たちのジャケットに刺繍したのが始まりである。
その後、スカジャンは土産物(スーベニア)として商品化され各地の基地の売店(PX)で販売されるようになった。
当時、このスカジャンをはじめとした衣料品を米軍基地へ納入していたのが、東洋エンタープライズの前身である「港商商会」であり、スカジャン生産全盛期の1950年代には、納入シェアの95パーセントを占めるほどであった。
また、港商が納入していた衣料品にはアロハシャツも含まれていたが、柄には「鷲・虎・龍」をモチーフにしたオリエンタルな柄なども含まれており、スカジャンやアロハシャツは日本特有のオリエンタルなデザインが用いられた衣料品だと言うことが伺える。
日本に「洋服」が伝わってから長い年月が過ぎていったがその中でアメリカやヨーロッパへ行って、「これは日本人が作った洋服だ」と言わせるものが唯一あるとすればそれは「スカジャン」ではないだろうか。オリエンタルの象徴としての鷲、虎、龍といったモチーフが刺繍されたジャンパーである。
スカジャンが誕生したのは太平洋戦争に敗れ、疲弊した終戦直後のことである。全くと言っていいほど物資がなくなり、日々の暮らしを営んでいくために猛烈に知恵を絞り生き抜いてきた事実が現代日本の繁栄につながった。
闇市で食料品を調達することが余儀なくされていた時代、インフレで貨幣価値が下がり、日本人同士の経済の循環ではとても間に合わなくなっていた。しかし、「持てる者」「お金を使う者」は日本人以外にたくさんいたのだ。進駐軍として日本にやってきた米兵である。勝者である彼等は日本に来て多くのお金を落としていった。当然そこに目をつけた者は少なくなかった。米兵相手の店はいずれも繁盛した。店を出すことのできない者は、焼け野原からわずかに残った自分達の家財などを売っていたのだ。
当時、東京の銀座界隈には多くの露店が並んだという。そこには米兵達がお土産として欲しがるようなものが並べられた。例えば雛人形などは人気があった。首部分が欠損しているようなものでさえもアメリカ人の好物にはかわりなく、飛ぶように売れていったそうだ。やがて、そんな状況に目を付けて、少しずつお土産として好まれる品を自分達で作って売るという動きを見せる者が出てきたのだ。ここで売れるものは何か?米兵達に親しみやすい服で雛人形に代わるもの。ベースボールジャケットを模して、そこに彼等に喜ばれそうな派手な刺繍を入れて売る。生地は物資統制外で比較的手に入りやすかったレーヨンを使い、刺繍は桐生や足利で呉服や和装小物に刺繍を入れていた職人達に頼んで鷲、虎、龍などの刺繍を入れてもらった。
最初は少しずつ露店に持ち込んでは「シルク素材だ」という触れ込みで米兵達に販売した。すべてが混沌とした時代である。それがレーヨンだったとしても、シルクだといえばシルクになってしまうような時代だった。並べればすぐに売れてしまうほど人気となったこのジャケットは「鷲虎龍の刺繍ジャンパー」と呼ばれていた。
やがて銀座界隈で人気を集めたこのジャンパーに目を付けたのはPXだった。露店から販売されたこのジャンパーは各地の基地に存在するPXに一斉に納められるようになった。
当時の納品伝票を見るとしっかりとこのジャンパーに名前が付けられていた。 「SOUVENIR JACKET(スーベニアジャケット)」。 スカジャンの誕生である。